自然は生殖を自由にさせておきながら、しかし存続維持は極度に困難な試練にゆだね、
				ありあまる個体の中から最良のものを、生きていくに値するものとして選び出す。
				こうして自然はそれだけを維持し、
				そして同様にその種の存続維持の担い手たらしめるものであるが、
				人間は生殖を制限するが、
				しかし一度生まれたすべてのものをどんな代価をはらっても維持しようとし、
				ひきつけんばかりにいっしょうけんめいになる。
				神の意志を訂正することが、かれには人間的であると同時に賢明であるように思える。
				そしてもう一度ある点で自然を凌駕し、そのうえ自然のたりないところは証明したと喜んでいる。
				もちろん実際には数は制限したが、これに対して個々の価値は低下させられたのだということを、
				神の愛すべき小猿はもちろん好んで見ようともしなければ、聞こうともしないのである
				
    
				というのはひとたび生殖自体が制限され、出生数が減少するやいなや、
				最も強いものや最も健康なものだけしか生きることを許されない、自然的な生存競争の代わりに、
				最も弱いものや、それどころか最も病弱なものも、
				どんな代価を支払っても「助け」ようとする当然の欲望、
				また自然と自然の意志を侮蔑することが長ければ長いほど、
				ますます悲惨なものとならざるをえない子孫のために
				胚を残しておこうとする当然の欲望が生ずるからである。
				
    
				しかし結局かかる民族には、いつかこの世界の生存権がとりあげられるようになるであろう。
				(『角川文庫 完訳 我が闘争(上)』の195〜196頁より)
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