※自分史または、未来への遺言 ――私と赤犬の戦いの全史―― ★★★将来、ユダヤ支配と戦おうという無謀な人が現れるかもしれないので、 その人の為に私の経験を書き残し、少しでも役立ててもらおうという試みです★★★ ・見る目さえあれば、バブル景気もその後の長い停滞も、全ての意味がこれで明らかになるはずです。 ――ガス・薬物を使った共産党の洗脳手口に対する義憤から始まったこの戦いで、 考え得る全てのことはやったんですけどね……この辺で私の敗北宣言とします。 ――結局『嘘の天才=ユダヤ主義』には誰もかなわない、という事が最終結論ですね。 ・恐らく、このまま行くと、私の存在は『悪魔にとりつかれた運の悪い奴が一人いた』という程度で、 すぐに忘れ去られ、ユダヤ支配の世界が更に何百年か続くことになるだろうという気がします。 ――無論、それがユダヤ主義の狙いな分けで、良かれ悪しかれ、まともな人間ほど長く苦しむ時代が続くんでしょうね。 1948年(昭和23年)10月13日 春日部に生れる ・生まれた時は上町の借家にいたらしいが、私の記憶には全くなくて、後から母に聞いて知った。 ・記憶にあるのは内出町からで、当時、父が春日部高校の教頭だったせいか、 高校が提供する校宅みたいな所にいた。 ――春日部の上八幡神社の境内の参道の脇(入って左側)で、上手には校長の家があった。 ――どうして参道にあったのかは知らないが、今は取り壊されて完全な参道になっている。 ――多分、戦争中は食料増産の為に参道周辺zかもしれない。 ・隣は佐久間さんという校長一家で、たけし・やすしという兄弟がいた。 ――何かの時に、その家に招かれて、幻灯の投影を見たのを覚えている。 ・何才頃かはっきりしないが、春日部高校が大火に見舞われ木造校舎が全焼した。 ――母に起こされて空を見上げると、家から数百メートルと近かったせいか、 赤い火の粉が頭上まで流れて来ていたのを鮮明に覚えている。 ・今、ネットを調べて分かったが、昭和28年3月25日午前4時20分の出火とあるから、 私は4歳の春だったことになる。 1953年(昭和28年)3月25日午前4時20分に火災が発生し、校舎が消失。 1955年(昭和30年)に旧校舎竣工。 ・その後、高校は鉄筋で作り直されたが、何度か文化祭の時に見に行くと、 化学実験の展示などがあって、締めくくりに仮装行列をやっていた。 ――大砲を乗せた軍艦みたいのが毎年恒例のように登場し、 カーバイドか何かを使ってドカンドカンと鳴らしていた。 ――やんちゃな兄たちは、その材料をどこかから盗み出して来て、 神社裏の砂山で鳴らしたりしていたようである。 ――だから、楽しそうな高校生活には憧れがあった。 6才の春 粕壁小学校に入学 ・校庭の鉄棒の前に整列すると一年松組の担任で花井という美人の先生が、 胸に赤い薔薇の造花を付けてくれたのを覚えている。 ――存命なら90歳前後のはずだが……その後の消息を御存知の方はいませんかね!? ・当初、結構な違和感があったのだが……大人になってから考え直して気づいたのは、 他の大半の子は幼稚園や保育園を経由して入って来ているので、人馴れしていたのに対し、 家が貧しくていきなり小学校から入った私は、その辺で違和感を感じたようである。 ・そのせいか、私は図書館で借りた本ばかり読む生徒で、暗いと思われたのか結構いじめられた。 ――そう、幼い頃から人見知りがひどい性格で、そのせいもあったかもしれない。 ・幼少の頃から、いろはにほへとの仮名を書いた積み木で遊んでいたので、 文字を読む抵抗は少なかったらしい。 ――いろはにほへと、ちりぬるをわか、よたれそつね、ならむういの…… と意味も知らずに『いろは』歌を7字区切りで暗記していた。 ――その代わりというか、家が貧しかったので漫画本は一切買ってもらえず、 周囲の少年たちが鉄腕アトムに夢中だった頃、私は全くそれとは無縁の少年時代を過ごした。 ・いじめに関して言うと、神社周辺ではいじめっ子と良く石のぶつけ合いの喧嘩をした記憶がある。 ――参道に獅子を乗せた石の土台があって、その後ろに隠れて小石をぶつけ合うのだが、 大体は非力の私が一方的にやられることが多かった。 ――ところがある時、たまたま私の投げた石が相手の頭に命中したのか、 その相手が家に文句を言いに来たことがあった。 ――その時、母がその頭に赤チンを塗っているのを見て、 どうしてそこまでするのか、と少し情けない気持になったのを覚えている。 ――同じ奴だったかどうかハッキリしないが、私が余りに一方的にいじめられるのを見かねた兄が、 たまたま相手の兄貴と親友で、いつも一緒に暴れまわる仲だったので、 その兄貴に文句を言ったらしく、相手の兄貴が弟をとっちめるという展開になり、 それ以降、私はいじめられなくなるという事件もあった。 ・当時、神社の参道の両側は杉並木になっていたが、夏に古利根川で花火大会があると、 見に行かなくても、その杉木立の間から遠く花火の上がる様子が見えたのを覚えている。 ・他方、私が小学生の頃は王・長島の全盛時代で、ラジオの野球中継で少し夢中になったが…… それ以上にのめり込むことはなく、朝日新聞の影響か中学時代はむしろアンチ巨人になっていた。 ――床屋の親父が巨人ファンだったのを横目に見ていた。 ・高学年になっていたと思うが、運動会の障害物競争の時、 『まともに走っても勝ち目はない』とわかっていたので一計を案じた。 ――具体的には、走っている最中から次の障害物をどう処理するか考えるのだ。 ――例えば、次が網くぐりなら、どうやって効率良くくぐるかと考えた末、 何位か正確には忘れたが、3着以内に入って商品の鉛筆を手に入れた記憶がある。 ・今考えると、あれは多分6年生の時に違いない。 ――翌年の運動会があれば、きっと同じ手で勝ちを狙ったに違いないが、 それが成功しても失敗しても、覚えていないはずはないからだ。 ・高学年の頃か、また引っ越して上町のぼろ屋に移ったが……今回は持ち家だった。 ――区画整理の為か家の前側がカットされ、道に面した一段低い板の間は三角に切り取られていた。 ――風呂は一応あったが、台所の横に風呂桶を置いただけの粗末な作りで、 近くの銭湯に通うことが多かった。 ・近くに毎日新聞の売店があったせいか、親から勧められて新聞配達のアルバイトをした。 ――いつも配り終えると何故か一部余ったのだが……そういうシステムで、 一部は配達員が貰えるのか、と深く考えずに自宅に持ち帰っていた。 ――ある時、売店の主人が『配る新聞が余っていないか』と聞くので、 その通り話した所、主人の計算ミスだったことが分かった。 ――親が気づいても良い所ではあったが、当人のミスでもあったので、特に怒られることはなかった。 ・これで少しはお金が溜まったはずなのだが……『金の有り難みを教えよう』 という親の配慮が裏目に出たというべきか、その後の私は簡単にはお金を使えない性分になってしまった。 ――よって、天体望遠鏡など、欲しい物は色々あったのに結局、その金はそのまま貯金になってしまった。 ――結果的には、その貯金を含め、後の外国渡航の原資になった分けなので、無駄ではなかったとも言えるのだが、 『上手な金の使い方』という点では失敗だったような気もする。 ――その帰結というか、私の人生では贅沢ができなかった代りに、金に困った経験は一度もない。 ――というのも、銀行や郵便局に最低10万円位の貯金がないと不安で生きていられないみたいな性格だったから、 サラ金みたいなものとは全く無縁の人生だった。 ★★★弟の病気 ・あと覚えていることとしては、材木座に教員用の保養施設があって、何度か海水浴や潮干狩りで家族旅行に行った記憶がある。 ――海水浴と言えば大学時代だったか、弟を連れて千葉の御宿海岸まで行った記憶もある。 ・他方では家族旅行で、富士山に行ったこともある。★★★ ・一応、教師の家庭ということで教育熱心ではあり、習い事への投資は惜しまない傾向にあった。 ――小学校の3-4年頃だったか、梅田橋を渡った先にある習字教室に暫く通ったことがある。 ――それで、少しは文字が上手になったかと言えば全くダメで、今なお悪筆のままなのだが、 唯一効果があったとすれば、左手の親指と人差し指の間の関節が柔らかくなった位か!? ――というのも、ずっと正座しているのがきつくて、左手を後方に突きっ放しにしていたせいだった(^^;) ・中学時代には、近所に英語を教える私塾みたいなのがあって、ここも1年くらいは通ったのだったか。 ――この塾での経験が、やたら文法の細部にこだわる傾向を生んで、 それが高校時代の教師に『質問の王様』等と言われた原因を作ったのかも知れないと思う。 12才の春 春日部中学校に入学 ・小学高学年から中学に入った頃にIQテストがあり、出来が良かったのか、 その後で周囲の雰囲気がガラッと変わった気配を感じた。 ――この頃が謀略の起点ではないかと、自分では考えている。 ――つまり、IQテストの結果は非公開で、誰でも見られたはずはないので、 謀略の司令を受けた一部の連中だけが知っていたと考えるしかない。 ・中学時代は生徒会の書記になったりして、結構充実して楽しかった。 ・多分一年の時、放送部に入ったが毎日、お昼休みにかけたSPレコードの『未完成』から、 クラシック音楽にはまって、図書館の資料室にあったレコードを片端から聞いたりした。 ――後の高校時代には、読響(読売日本交響楽団)の公開録音か何かに応募したが、 何度か抽選に当って上野の東京文化会館まで聞きに行った。 ――その時、例の美人ピアニストの中村紘子の演奏も聞いた記憶がある。 ――残念ながら少し前(5年前)に死んでしまったが、私よりは4つ年上だったらしい。 ・二年の時は水泳部に入ったが、たまたまその年は関東平野が渇水となり、 学校がプールに水を入れてくれなかったので、代りに持久走ばかりするさえない水泳部だった。 ――この辺から謀略があった可能性もある。 ・同じ年、勝田恵子という生徒が入学し体操部に入ったが、彼女に本格的な初恋をした。 ――ある時、たまたま廊下ですれ違う時、私は何故か恥ずかしくて小走りになったのだが、 その時、相手も小走りになったので、向こうも自分を好きなのかと気づいて嬉しかった。 ――しかし、彼女は学校のアイドルみたいな存在になり結局、一言も話せなかったのが心残り。 ・三年になると何か球技をやりたいと思ったが、グローブやバットは買ってもらえない少年時代で、 野球では勝ち目がないと考えた末、入ったのは当時はマイナーなサッカー部だった。 ――その時、監督に見込まれたのか妙な励ましを受け、 『頑張れば、地元の春高(春日部高校)くらいには入れるから』と言われた。 ――しかし、すでに浦高〜東大という路線を決めていた私は逆に不安になり、ほどなくやめた。 15才の春 浦和高等学校に入学 ・スパルタ式の校風の男子高校で、木造校舎も暗かったので、余りよい思い出はない。 ――教師たちは、やたらクラブ活動を推奨したが、通学に片道一時間かかる状況では運動部を敬遠し、 仕方なくグリークラブに入ったものの、曲の好みが合わずにほどなくやめたと思う。 ・ブルーバックスの本で『粒子と波動の二重性』を言う量子力学の不可解さに魅せられ、物理の研究者になることを志した。 ・他方、アウシュビッツのことを書いた本にひどいショックを受け、ドイツ語アレルギーになった。 ――その事が尾を引いたのと、元々他人と同じことはやりたくない性分の為、 大学での第二外国語は理系に反してフランス語を選択した。 ・家にTVが入った頃、翌年の東京五輪を控え、日米間の初の衛星中継があるというので、 朝早く起きて待っていた所、何と第一報がケネディ暗殺だった。 ――現地時間1963年11月22日金曜日12時30分(日本時間11月23日土曜日04時30分)とあるので、 私は15才の秋だったことになる。 https://www2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009030052_00000 11月23日早朝、世界の放送史上画期的な実験、太平洋を越えたテレビの宇宙中継が行われた。 午前5時28分、モニターテレビに史上初めて太平洋を越えてきた映像が鮮やかに映し出された。 ところが、この歴史的な電波に乗って送られてきたのは、ケネディ大統領暗殺の悲報。 中継のアナウンス「この電波でこのような悲しいニュースをお送りしなければならないのは 誠に残念」と伝え、衝撃は全国に広がった。 ・高校2〜3年の頃だったか、また引っ越して今の自宅に移った。 ――土地だけ先に買ってあったらしく、東京の親戚の金持ちが家を建て替えるというので、 その資材をそっくり貰い受けて、その土地に立てたのだった。 ――父は兄弟が沢山いたらしく、その内の3人は東京に出てそれぞれ肉屋を開業し、それなりに財を成していた。 ――よって、お土産にロースハムを一本丸ごと貰うことも多く、当時はまだ珍しかったハムを結構食べた記憶がある。 ・確か中学校の時、宿題か何かの作文で『三軒の肉屋』というのを書いて提出した所、後で母に叱られた。 ――母としては、肉屋を余り高級な職業とは思っていなかったしく、そんな事は人様に自慢することではないと言われた。 ・そのうちの一人が戦争で中国に行き、随分ひどいことをして来たらしいということを漏れ聞いた私は、 戦争犯罪として告発しなくて良いのかと随分悩んだこともあった。 ――戦争に関しては、父も招集されたらしいが、既に結構な年だったせいか、余りきつい所ではなかったらしく、 父が戦争の話をする度に、母は『大したことはしていない』とバカにしていた。 ――本当の所、私は父の話をもっと聞きたかったのだが、その都度、母が頭ごなしに止めるので聞きはぐったというのが実情だった。 ――母方の叔父も戦争に行ったのだが、インテリだったせいか、『兵隊もやり方によっては、何とかなるもんだ』と割と軽く見ていたようだった。 ・父の親戚どうしは、お互いを渋谷・世田谷・松原・春日部などと地名で呼び合っていたのだが、 ある時、その渋谷の親戚を訪問した時のこと、子供は邪魔になるからということで、かなり年上の従兄弟に東京見物に連れ出されたことがあった。 ――その時、適当な映画館に入ったのだが……ちょうどやっていたのは、数人の罪人が十字架に張り付けにされ、火炙りの刑になる場面だった。 ――当然、私の目は釘付けになってしまい、もっと見ていたかったのだが、従兄弟は子供の教育上良くないと考えたらしく、 まだ席に着く前だったが、人込みのなかを、そのまま強引に外に引き出されてしまった。 ――あれが一体何の映画だったのか気になるが、未だにハッキリしない。 ――その時に見た東京の街は、何やら華やかで夢の様な世界だった。 ・残酷云々という意味では、中学時代の私は非常に好奇心旺盛で、何か事故があったと聞く度に、 自転車ですっ飛んで見に行くような子供だったから、大抵の死体は見た記憶がある。 ――歯医者の前の旧国道4号では、中年女性が車に引かれていて、頭蓋骨が割れて髄液が流れ出していた。 ――今の125号踏み切りの事故では、電車に引かれて手足がバラバラにもげた死体を見たことがある。 ――古利根川で見た溺死体は、蒼白の顔面の鼻から、鼻毛がビローンと流れ出ていた。 ――どれも警察が来るより先だったので、今の様に青シートで隠される前だった。 ・後から考えると、どこからそんなに早く情報が入ったのか不思議なんだけど…… 今考え直すと、当時の日本人は空襲警報などの訓練が行き届いていたので、 その手の情報ネットワークが発達していた一方で、警察の初動が逆に遅かったのかもしれない。 ――兄なども、どこかで火事と聞くとやはり、吹っ飛んで見に行ったみたいで、 私も火事などは見に行ったはずなんだけど余り記憶にないのは、やはり何と言っても、死体の記憶の方が強烈だったんじゃないだろうか。 ・それで思い出したが、後に2トントラックの運転手をやっていた頃、子供が轢き殺される瞬間を目撃したことがある。 ――相模原の近辺で片側3車線くらい道だったと思う。 ――左前方を走っていた同じ2Tトラックらしき車に、右手からふらふらと飛び出してきた小学生くらいの少年が乗る自転車がぶつかった。 ――子供の頭がちょうど車輪の下に入るのが見えて、子供の顔が一瞬泣きそうに歪んだがすぐにそのまま動かなくなった。 ――ひいた車はずいぶんノロノロ走って行って少し先に止まったが、急ブレーキをかけた節もなかった。 ――出てきた運転手は隣の席の助手席の男と談笑していたらしく顔は笑顔で事態の重大さを理解してるとは思えなかった。 ――ほんの一瞬の出来事だったと思うがその日新聞の記事で見た記憶はなかった。 ――多分よくある事故の一つとして片付けられたのだろう。 ・他方では、田舎の父や母の実家に連れ帰られたこともあった。 ――母の実家は羽生の農家で、蚕を飼っていたらしく、養蚕の棚を見た記憶がある。 ――父の実家も加須の農家だったと思うが、近くに総願寺というお寺があって、そこの夏祭みたいなものを見に行った記憶がある。 ★★★春日部の神社の祭のこと ・高校3年の時、勉強に疲れたせいか、突然意識を失って廊下で倒れたらしい。 ――気づいた時は病因のベッドにいたが、診断は貧血だったので、兄たちが集まって献血し、輸血されたのを覚えている。 18才の春 東大理学部一類は不合格、早大理工学部は合格したが駿大予備校に入る。 ・予備校では、また好きになった娘がいたが……少し話すと開業医の一人娘だった。 ――当時すでに物理しか頭になくて、医者にはなりたくなかった私は、 『当然、医者の跡継ぎを期待される』と思って引いてしまった。 ――後になって考えると、この時の彼女にしても一種の罠と言うか、 私を物理の方向から遠ざける為の工作だったような気もする。 ――つまり、当時のユダヤ主義の戦略として『日本が核を持つと困る』という事情があって、 なるべく物理の方に行く人材を手薄にしようと画策した可能性がある。 ――現実の日本は広島の石碑『過ちは繰り返しませんから』で象徴されるような、 チンケな理想主義にはめこまれて、そんな心配は皆無だった分けだけどね。 ・その彼女が、ある時『私、Z会をやっているの』と少し得意気に言ったのだが、 高校の教科書すらこなしきれずに苦労していた私には、全く理解できなかった。 ――当時のZ会は始まって間もない頃で、受験教材としては有名だったらしいが、 『一つの疑問が解決しても、そこから次々と別の疑問が沸いてくる』というのが私の性分で、 高校の英語教師などは、私に『質問の王様』とあだ名を付けた位だった。 ・時々、質問を大量に繰り出して授業をストップさせたとか自慢してる奴がいるが、 私にしてみれば、もしやる気ならそんなことは朝飯前で、ただ他人の迷惑になるからやらなかっただけのことである。 ――常に20件ぐらいの質問を抱えていたから、その中で本当に大切と思った3、4件だけに絞って質問した。 ――だから、出来れば高校三年をもう一度、やり直したいと思っていた位である。 ――実際にそういう制度のある高校もあると聞いて、うらやましく思っていたから、 教科書に加えてまた別の教材をやる意味が全く分からなかったのだった。 19才の春 東大理学部一類はまた不合格で、早大理工学部に入学した。 ・予備校はそれなりに面白かったが、受験技術ばかりで人生の無駄と感じた。 ――因みに、翌年は大学闘争で東大の入試は中止となり、それで一年後輩には東大クラスの秀才が多かった。 ・早大はあまりに雰囲気が良いのにビックリしたが……物理科に入ったつもりが、 当時の物理学科は開設されたばかりでもあり、実態は応用物理だった。 ――それで授業が面白くなかったので、友人に誘われて英語の教科書を読む自主ゼミをやったが、これは大変役に立った。 ――ゴールドスタインの『Clasical Mechnics』(古典力学)は有名な本だったらしいが……後から考えると、 その名前からしてユダヤ系なので、この辺でも謀略があったような気がする。 ・肉体的なコンプレクスもあって、一二年の頃の体育科目でウェイト・トレーニングを選んだ。 ――その授業では文学部のキャンパスが使われたのだが当時、上級生に例の吉永小百合がいた。 ――年上で私の好みのタイプでもなかったのだが、何かの拍子に出食わすのではと多少期待した所……それはなかった(^^;) ★他方、授業が面白くないこともあり、一二年の頃はチャンスがあったら、外国に留学したいと思っていて、 サンケイスカラシップというのに応募したが、一年の時は英語で応募して失敗、二年の時は仏語で応募して失敗した。 ・実は一年の時に英会話の授業をとったが、その講師は過去の生徒が余りに消極的だったのか、初めから匙を投げたみたいな投げやりな態度だった。 ――こっちから働きかけたら、変わる可能性があるとは思ったが、当時の私にはそれをする勇気も余裕もなかった。 、 ・で、二年の時は、仏語会話をとったが今度は女性講師で、聖跡桜が丘とかいうやたらバタ臭い名前の所に住んでいた。 ――日本人と結婚していたと思うが、一度はその家に招かれて行ったこともある。 ・その先生で覚えているのは、何かの時、彼女がしきりに『岡井戸,岡井戸』と繰り返すので、 一体何を言っているのか分らずに聞き返す内、それが『北海道』のことと分ったことがあった。 ――言うまでもなく、フランス語では語頭のHを発音しないので、 北海道は岡井戸(okaido)になるし、花子は穴子(anako)になるのだった。 ★大学時代の特筆すべき思い出として、尾形グループの交流がある。 ――私の青春時代の最大のトピックといってもよい位だが……図書館司書をしていた尾形氏と知り合いになった結果、 その人徳というべきか、彼の周辺には色んな仲間が寄り集まり、一緒に山登りの旅行などをした。 ――中でも、槍ケ岳縦走の登山にひっ張り出された記憶は、私の人生にどれだけの花を添えたかわからない。 ――ひっ張り出されたというのは、つまり自分には登山の計画を立てる能力などは、はなから無かったわけで、彼らに誘われない限り、 槍の頂上に立つ事は勿論、その帰り道で上高地の忘れがたい風景に出会うこともなかったと思われるからである。 ――他にも、富士登山や尾瀬が原旅行にも誘われたのだが、勉強の都合等もあって断ってしまったのは、 今考えると、何とも勿体ないことをした、というに尽きる。 ★それから、何かのアルバイトを頼まれて友人と伊豆の神津島へ船に乗って行った記憶も忘れがたい。 狭い船内に雑魚寝するみたいなことをしたが、やはり何といっても船旅というのは地上の旅とは全く違った印象がある。 ・国内旅行としてはこの他に、京大時代に弘前の学会に行った後、ついでに青森周辺を旅したのも印象深い。 ――恐山から浅虫温泉と回った後、奥入瀬渓流を十和田湖へと昇ったのだが、あの時の奥入瀬渓流の感動も忘れがたい。 ――そう、弘前への行きがけに夜行列車から見た羽越本線の壮絶な海岸風景も、また青春の忘れがたい記憶の一部である。 ・当時の大学紛争の中、確か東大かどこかで三島由紀夫が講演をするというので聞きに行ったことがあった。 ――こめかみの当たりをヒクヒクさせて、ひどく神経質な男という印象を受けたが、 それから何年か後、例の自決事件を起こしたのだった。 ・卒論では、余り面白みのないテーマだったが、超多次元空間の容積計算というのを選んだ。 ――『今後は計算機の時代になる』と見て、ここで計算機を使う仕事に慣れておいても損はないと考えた結果だった。 ――当時は田無に計算機センターがあり、パンチカードを抱えて片道2時間以上もかけて通ったのを覚えている。 ――田無にはTOSBACだのHITACだのという日本製の大型機械があったが、実は早稲田にもより小型だがIBMの機械があって、 両方をいじった結果、IBMの機械の方がずっと頭が良さくて使い易いと分かり、それが後に株で儲ける一因となった。 ・因みに、頭の悪いPCの典型が例のWindows。その結果、私がどれだけの人生を無駄にしたか……。 ――実は最初の内は、IBMもパソコンを作っていたのだが、悪化が良貨を駆逐するというか……その後の展開は周知の通り。 ――恐らく、それは『私の足をひっ張る為の謀略工作だったのではないか』と、私は疑っている。 学生運動の思い出 ・個人的には、この頃の私はまだ民主主義を信頼していたので、暴力主義とは無縁だった。 ――後になって『この世界の実態は赤犬支配による体のよい奴隷制である』と気づいてみれは、 ある意味で暴力闘争を選んだ彼らの方が正しかったとも言えるのだが…… 多くは左翼の共産主義系だった分けで、まあどの道勝ち目のない戦いだったに違いない。 ・で、少し学内闘争みたいなことをやり当時、古書ばかりだった理工学部の図書館の蔵書を入れ替えさせたりした。 ・後は、個人的にベ平連の街頭デモに行く程度だったが、ある時、 デモ集会の前に声を掛けられて『爆弾闘争をやらないか』と誘われたのにはビックリした。 ――当然ことわったが、こんな所で仲間を集めていたのかという気分だった。 ――私はというと、デモ参加者の中で美人を捜し出しては、隣にもぐり込み、 デモの間、ずっと手をつないでいたりした。 ――広い幹線道路に入ると、つないだ手を一杯に伸ばして拡がり、車の通行を遮断させて歩くのが爽快だった。 ・ある日突然、知っている学友が、青いヘルメットをかぶっていて驚いた。 ――一体どういう経緯でそこに至るのか、その過程が全く見えないので私には不可解そのものだった。 ・当時の早稲田では本部は革マル派に支配され、理工学部は社青同解放派が主流だった。 ――社会党の青年部組織である社会主義青年同盟から分派した過激派だったが、 略して青解(あおかい)というのが通称で、青いヘルメットを目印としていた。 ・ある時、その一人(愛媛県出身)が『本当は、一人一人の国民を説得できさえすれば、 暴力闘争なんて必要ないんだよね』とつぶやくのを聞いて『今頃そこに気づいたか』 と私は呆れたが……さすがに口に出してそれを言うのは憚られた。 ・またある時、別の一人(北海道出身)に『こうして一緒にゲバ棒を振るう生活は、 きっと仲間が沢山いて、充実しているんだろうね』と問いかけると、 『内部は全く孤立して、索漠として砂漠みたいだ』というのにまた驚いた。 ――皆、どこかで洗脳に追い詰められ、すがるように飛び込んだのかもしれないと今は思う。 ・またある時、その一人が『革マルは生理的に嫌いだ』というので、 それには私も全く同感だ、といたく共感したことがある。 ――第一に、あの白いヘルメットにZを書いた奴が気に入らない。 ――気どってZ旗を付けたつもりかもしれないが、政治的ミーハー受け狙いがミエミエだった。 ――第二には『美人ばかり集めて、色仕掛けで洗脳しよう』というその意図が卑しい。 ・それに比べ、外見にだまされたか、民青や共産党への印象は特に悪くなかった。 ――民青というのは日本共産党の青年部組織で、民主青年同盟の略である。 ――ところが、ある時、話していてその青ヘルの一人の言葉にビックリした。 ――革マルより何より、一番たちが悪いのは民青だと言うのだ。 ――何故なら、民青は表面上は非暴力を装っているが、誰も見ていない深夜になると、 突如、ゲバ棒で殴り掛かってくるのだという。 ――当時の早稲田では、法学部が民青の本拠だったが、その頃の私は、 それを聞いても尚、半信半疑のままだった…… 23才の春 早大大学院の修士課程にそのまま進んだ。 ・修士過程の一年の時、ファインマン教授の論文をヒントにして、 英語の論文を書き、『素粒子論研究』という雑誌に投稿した。 ――果たして、この道で自分が本当に通用するか不安で早めに見極めたかったので、少し焦っていた。 ・もし、見込みがないと分かったら早めに見切りを付け、何か事業を起こして一儲けしようという考えだった。 ――だから『自分でテーマを見つけ、英語で論分を書き、専門誌に投稿する』という一連のプロセスを、 誰の助けも借りずに自分一人の力でやってみたかったのだ。 ――その場合、外国の英字誌への投稿は有料だったが、日本語中心のこの雑誌は無料だったので、それを選んだと思う。 ・しかし、それは通常の慣例には反することだったらしく、 後で助教授から『事前チェックの為に相談すべきだった』と注意された。 ――自分としては、何重にもチェックして『計算ミスはあり得ない』という絶対の自信があったのだが、 この件は教授とギクシャクする一因となる一方、その雑誌の本拠が確か京大で、 後に京大の博士過程に合格した一因になった可能性がある。 ・今から思うと教授としては立場がなかったというか……面目丸潰れだったのかもしれないとは思うが…… そもそも研究室というシステムがどういうものなのか、未だに私には良く分からない部分が多い。 ――結局、当時は『全ての秩序を破壊せよ』みたいな騒然たる社会風潮があったし、 私個人としても『教授に取り入ってどうこうしよう』なんていう意識はカケラも無かった。 ――むしろ、とにかく自分で論文を書いて発表し、その評価で生き残るしかないという覚悟だったから、 論文を書いて発表するのに教授の許可が必要だ、などということには全く思い至らなかった。 ・まあ、同じ研究室にいる以上は、何かしらの相互影響は免れないし、その意味で、 個々人が勝手に論文を書いて発表していては、研究室として成り立たないということもあるのか……。 ――その点、後述する京大の湯川研究室には混沌会というのがあり、確か月に一度位は研究室の全員が集まって、 上下関係無しに意見を交換し合うという慣例があったので、風通しが良く互いの意志疎通もとれたと思うが、 早稲田の並木研究室にはそうした仕組みも無かった。 ――もっとも、シュレディンガーの猫に関する議論を持ち出し、はぐらかされたのも、 たしかその混沌会だったと思うから、混沌会も完全に機能していたとは言いがたいのだが…… ・他方、ファインマン教授流の洗練された方法に惚れ込んでいた私には、 並木教授流のやり方は余りに泥臭くて、個人的には尊敬していなかったというのが実情だった。 ――並木研に入ったのも、とりあえず理論物理をやる為の場が欲しかっただけで、言わば行きがかりで入っただけだった。 ・当時は若くて馬力もあったので、春から論文を読みあさってテーマを見つけると、夏から秋は計算に没頭したと思う。 ――よって、論文が完成する頃にはもう精根尽き果てていて、仮に助教授あたりから何か修正を指示されたとしても、 もう気力が残って無かったというのが実情で、あの論文はとにかく、そのまま投稿するしか無かった気がする。 ・1973年04月20日(24才の春)に出版された『素粒子論研究』のその論文は、ネットを探すとここに見つかった。 ――『素粒子論研究』のデータは今や全てPDFになっているらしい。 ――今見直すと、もはや自分でもチンプンカンプンなんだけどね(^^;) https://www.jstage.jst.go.jp/article/soken/47/2/47_KJ00004778158/_article ★一つ困るのは評価が分からないこと…… 25才の春 更に博士過程に進むつもりが、教授との折り合いが悪くて、落された。 ・それで、早大に見切りを付けて別の大学をあさったが、ここでまた一浪した。 ――丁度、学生運動のさなかで友達がどんどん洗脳され、早稲田には居場所がなくなった気がしていたので未練はなかった。 ・当時、CalTechにいたファインマン教授の魔法のような教科書に魅了されていた私は、 渡航したい気もあって、光学研究所の所長をしていた母方の叔父に相談した。 ――その時、応援してもらえるかも、という淡い期待に反し、 『偉い教授を頼って行っても、雑用でこき使われるだけかもしれないよ』 と否定的なことを言われたので、結局あきらめざるを得なかった。 ・いつか謀略を打ち倒して物理に復帰できたら、どこかの大学で、 ファインマン教授の教科書を使って学生に教えたいというのが一つの夢だったが、 それを果たせずに終わることが、我が人生の最大の悔いと言えるかもしれない。 ・それでもまあ、ある意味でやるべきことは全てやり切ったから、やり残した事は無いともいえる。 ――つまり、後述するように、自分なりに『幸せとは何か』を詰め切ったし、 『最大多数の最大幸福を実現するにはどうすればよいか』も明らかに出来たと思うので、 後はそれ(根税制)をどう実現するかという課題が残されただけである。 ――赤犬支配(ユダヤ支配)さえ終わらせる事が出来れば、その実現は難しくないに違いない。★★★ 26才の春 再び東大の大学院を目指したが失敗した末、京大に入るのに成功した。 ・入ったのは有名な湯川研究室で、益川氏(後のノーベル賞受賞者)もいたので、研究環境は申し分なかった。 ――ひとつ覚えているのは、私が議論をしようとしてシュレディンガーの猫の話を持ち出した時、 御大が『箱に穴があいていて云々』と、とんでもないことを言いだしたこと。 ――一体どうして、そんなことを言ったのか、未だに良く分からないのだが、 後から一つ思ったのは『私が分かりもしないことを偉そうに言いだした』と疑い、 かまをかけたのではないかということ。 ――最近また考え直した所では、むしろ私の思考整理に寄与したくないという、謀略的な意図だったのかも。 ・観測問題というのは『下手をするとそれだけで一生を棒に振る危険性もある』現代物理の超難問で、 数学で言えばリーマン予想みたいな問題である。 ――素粒子の振る舞いを記述するのに、波動方程式が役立つことが知られている。 ――その波を確率波と考えるのが、標準的なコペンハーゲン解釈なのだが、 アインシュタインは『神様はサイコロを振らない』と言って拒絶したことで有名である。 ――例のファインマン教授も、量子力学の意味を本当は誰も分かっていないと言った位だ。 ・そこで登場するのが、シュレディンガーの猫という思考実験である。 ――ある素粒子の崩壊を調べる装置を作り、崩壊したら毒ガスが放出される仕組みにする。 ――その装置を猫と一緒に箱に入れ、外部との干渉がないようにする。 ――その時、一定の時間が経つと波動方程式に従って素粒子が崩壊し、猫は死ぬ。 ――箱の外にいる人間は、いつ崩壊したか分からないので、箱を空けた瞬間に猫の生死を知る。 ――その時、波動関数を確率波と考える立場では、箱を開けるまでの間、 猫は『生きている』状態と『死んでいる』状態の重ね合わせになる、と考えざるを得ない。 ――これは、我々の常識とは激しく対立するという分けである。 ・私が気になっていたのは、その箱を二重にするとどうなるかという事だった。 ――今度は、猫の入った箱の外を覆うようにもう一つ箱を作り、外箱の中には人間が一人入るのである。 ――例えば一時間したら内箱があき、二時間したら外箱があくようにする。 ――中の人間は死なないようにガスマスクを付けるか、或いは内箱に透明な窓を付けても良い。 ――その時、中の人間にとっては窓が開く一時間後に猫の生死が決定し、 外の人間にとっては二時間後に猫の生死が決定することになる。 ――となると、見る立場で『事実』が異なるという深刻な問題が生じるだろう。 ――一体、人間の認識に客観性はないのかということになる…… それが私が議論したかったことなのだが、うまくはぐらかされてしまった。 ・そうした問題の一つの答えとして、多世界解釈というのも出てきた。 ――つまり、波動関数の確率波を単なる確率ではなく実体と考えるのだ。 ――具体的には、その確率に従って世界が無数に分岐して行くという説である。 ――これも余り現実的ではないが、SFの材料としては面白いので、映画などでは良く使われる。 悪夢の始まり ・私の悪夢は、その京大で始まった。 ――京大では、うまく友達が作れず馴染めなかったので、私には『京大に所属した』という意識が全くない。 ・例えば、特定の個人とある程度以上に親密なつき合いをしようとすると、どこかから邪魔が入る感じなのだ。 ――後から考えると『多分、京大を牛耳る日共としては、 親密なつき合いで逆に私に取り込まれるのを恐れたのだろう』と思われた。 ・その内に、何か自分に対して、薬物やガスが用いられている気配を感じた。 ――前回の大戦では毒ガスも使われたし、今やもっと巧妙なもの、つまり、 全く証拠を残さないままに、人間を操作するガスや薬物が開発されていても何の不思議もない。 ――具体的に言うと、不安になる・意欲がなくなる・眠くなる・眠れなくなる・頭がボケてくる…… そうした手段を使って人間を追い詰め、洗脳する罠があるように思われた。 ・その時『ガスや薬物まで用いて人間を洗脳する』などという馬鹿なことが許されてたまるか、 という義憤にかられた私は、当然のことながら何とかしてその実体を世の中に暴露しようと考えた。 ――先ず、最初にやったのは地元の警察に駆け込むことだったような気がするが、 どこの警察署だったのか、そこで軽くあしらわれたのかどうか……その辺のことは今や記憶にない。 ――結局の所、薬物やガスの検出装置など、私個人が持つはずもないし、 決定的な証拠は、実際に暴露する段階にならないと出て来るはずもないから、 『全てはお前の妄想に過ぎない』と一蹴される危険が常にあった。 ・次に考えたのは、マスコミにたれこむ事で、あらゆるマスコミに手紙を送ったと思う。 ――朝日新聞を筆頭に、主立った新聞社は勿論、TV局もあったと思う。 ――週刊誌では、一番高尚と見られていた朝日ジャーナルから最も低俗なアサヒ芸能にまで送った。 ・しかし……全ては梨のつぶてだった。 ――無論、手紙などは共産党が、その息のかかった郵便局員にブロックさせて、 全て闇に葬ることなどは朝飯前かもしれない。 ――しかし、政治家を含めあらゆる所に働きかけた感触はそうではなかった。 ――ガリ版刷りのビラを作って各所でまくこともした。 http://www2.tba.t-com.ne.jp/a-z/omake/img2/bill-japanese7-yakubutu.jpg ・そう、当時の総理大臣の田中角栄にも手紙を書き、 更には巣鴨の自宅にまで押しかけたことがあったが、会えるわけもなかった。 ――この前後の感触から後で気づいたのだが、こうした場合、先ず手紙をブロックしておいて、 先に届け先の人物を洗脳し、しかる後にその手紙を見せているように感じた。 ――そうすれば、後から訴追されたりする危険は最小になるからである。 ――それは角栄氏の表情から、読み取れたことである。 ・結局、今の世の中は、既に大半の人間が洗脳され、 それがあの敗戦の帰結だったのではないか、と考えざるを得なくなった。 ――それなら、世界に出るしかないと考えた。 ――つまり、日本がこんな状態なら、外国に出て訴えるしかないと思うのは必然である。 ――それで、京都の下宿を引き払って自宅に戻ったが……その後で何かの時に、 母から『あんなに電話したのに、どうして出てくれなかったの』と詰問された。 ・それで気づいたのは『私を京都に誘い出したこと自体が、家族を分断し、 個別に洗脳するための罠だったの違いない』ということだった。 ――無論、私が電話に出ないわけはないし『洗脳の罠に追い詰められた母が、 必死に私に電話を掛け、遮断されたに違いない』ことは、容易に想像がついた。 ――ただ、既に洗脳されていた母としては、それを言ってはいけなかったはずで、 何かの手違いというか、そこまでは気が回らなかったのかもしれない。 ――その失敗に気づいたのか、以後の母はもう同じことは二度と口にしなかったが…… ・手持ちの貯金を全て下ろすと、100万円を越す位はあった。 ★★★以下は各自で努力して探せば、ある程度のことは分かると思うので、一応ここまで★★★ ――余裕があったら残りを書く予定 ★★★色仕掛けの罠の件は色々大変か ★★★読心の可能性 ――ビラでは傘云々と書いたが、テレパシーか念力かは全く分からない。 ――或いは、夜中に侵入して、催眠術か何かで聞き出すのかもしれない。 ――ただ、思いついたことは即座に実行しないと(数日後になると)必ず先回りされる感じなのだ。 ――だから、どこかの隠しカメラで覗かれているのかも知れないと疑い、 マルセイユで書いた仏語のビラでは『傘が役に立つ』と書いたのだった。 ――信じるのは難しいと思うが、仮にも謀略と戦おうという人は、 一応、頭の片隅に入れておいた方がよい。 ★★★天候操作の可能性 ――最初に気付いたのは、座り込みを始めた頃だったかもしれない。 ――毎日、何時間も道端に座り込んで抗議するのは結構大変で、その内に頭がしびれたみたいになって来る。 ――そこで、片手で広げたプラカードを支えつつ、片手で英語の本を広げて退屈しのぎに読んでいたのだが、 すると必ずと言ってよい位に、プラカードが裏返える向きに風が吹いて来た。 ――例えばプラカードを左手で持っている時は右から、右手で持っている時は左からといった具合。 ――後から考えると、それならむしろ雨でも降らせた方が座り込みを邪魔するには有効■■■■■ ★★★洗脳されるとゾンビと同じ ――二度と戻れず、嫌がらせノルマは一生つづく。 ――生きている人間は次々と洗脳されるが、外からは見えないので、 自分が洗脳される時まで誰も気づかないし、気づいた時は遅過ぎるというシステム。 ――ひとつの兆候は、洗脳される人間が追い詰められ、時々学校を襲ったり、 銃の乱射事件などを起こしたりすることである。(最近の、電車内で刃物や火を使う事件も同類である。) ・近年の日本では、いわゆる引きこもりが急増し、深刻な社会問題になっているが、 これまた、洗脳迫害の帰結に違いないというのが私の判断である。 ――その場合、周辺の家族が先に洗脳されている場合も多いので、 戸塚ヨットスクールみたいな所に入れられたりと、悲惨な結果を招く事も少なくない。 ★★★ただ、疑問なのは人間とは揺れ動くものだということ。 ――洗脳の時には、拷問みたいな残酷な映像でショックを与えたりして、揺さぶりをかけるのは常套手段である。 ――それで一時的に洗脳され、ある時点で確信に至るとしても、また別の時には疑いが生じる。 ――それなのに、一度向こう側に行くと二度と戻ってこられないのは何故なのか。 ★一つの手口として、犯罪の共犯者にすることで足を抜けなくする、ということがありうる。 ――例えば、毒やガスを使用させ、共犯関係に持ち込むという手口である。 ――だから、もし暴露するなら、そこをなんとか解決する道を考えた方が良い。 ★★★洗脳の標的となるのを避けたいなら、政治的なことには敢えて関心を持たないか、持たないフリをすべき。 ――これを読んで知った事や、このサイトのことを知っていることは誰にも話さない方が良い。 ――知っているだけで、危険人物と見なされるからだ。 ★★★一つの可能性としては顔判断があり得る ――当時、学生運動が吹き荒れる中で、私はいつ頃からか、 その人の顔を見ただけでどのセクトに属しているかが分かるようになった。 ――例えば最も分かりやすいのは革マル派の、特に男の場合である。 ――女を使って洗脳されることが多いからかもしれないが、一種独特の腐敗臭を放っている。 ――女の場合には、それほどはっきりとは分からないのだが、妙にこびを売るような雰囲気があって、 例えば松田聖子が、ぶりっ子と言われたような雰囲気を持っている。 ――他方、民主青年同盟の場合には、逆に優等生的な雰囲気を持っているのでそれとわかることが多い。 ――そうした特技については、特に隠すこともせず公言していたので、あるいは、 そうした私の特技が恐れられて、洗脳の標的になったのではないかと疑った頃もあった。 ★逆に言うと、洗脳されていない人間はその目の光でわかることが多い。 ――良い例は多くないが、一つ決定的だと思うのは、この芥川龍之介の写真である http://ankou.sa-suke.com/omake/img2/Akutagawa.jpg http://www2.tba.t-com.ne.jp/a-z/omake/img2/Akutagawa.jpg ――ひどく解像度の劣るのが残念なんだけど、良い写真は謀略でつぶされたみたい★★★ ★こういう刺し通すような目つきをした人間は、決して洗脳されていないということが分かる。 ――今の世の中ではもうほとんどいないので、わからないと言うか比べようがないのだが、 言い換えると、その目が意思の光を強く放っているような人物は洗脳されていないということが言える。 ――果たして今の世界の政治家で、そんな目をしている人がいるだろうか…… ★結局、芥川は洗脳の罠にかかり自殺に追い込まれたようだが、似た例は枚挙にいとまがない。 ――戦前の太宰治の心中にせよ、戦後の三島由紀夫の自決にせよ全て、洗脳が関係していることは疑いようがない。 ――そういえば『この世は不可解』とか言って自殺した東大生もいた。 ・早稲田にいた時、授業中に窓の外を何かが通ってどさっと落ちた。 ――窓を開けて下を覗くと、学生がうつ伏せに倒れていて、頭から血が流れていた。 ・同級生の友人の一人は、宮川という西荻窪出身の理知的なタイプの男で、結構親しかったのだが、 大学4年の頃に自殺したと後で聞いた。これも洗脳関連かもしれない。 ・それから、高校の同級生で海老原という男がいた。 ――彼は、いわゆる応援団に所属してブイブイいわせているタイプで、私とは余り反りが合わなかったのだが、 彼がいわゆるセクト対立の内ゲバで中核派に殺された、というニュースを聞いた。 ――彼は革マル派だったらしいが、あの乗りで一方的に押しまくれば、恨みをかって当然という気もした。 ・そもそも、応援団にいるような人物が政治に興味を持つこと自体、ちょっと考えにくいのだが、 その辺がいかにも革マル的という感じがする。 ――無論、応援団員が政治に興味を持って悪いという分けではないのだが、 女を使って洗脳するような無節操な組織だから、そういう奴がいたのではないかとも思えるのだ。 ★それから奴らの手口として、一つ書き残すべきことは、私を孤立させる手口と言うか、 私と結びつく危険性のある人間を事前に全部、潰してしまおうと言う手口があるらしい。 ・例えば、私と趣味が合いそうな人、例えば音楽好きな人間は片端から洗脳する。 ――特にバッハ好きなんかは、まず最初に洗脳されるんじゃないだろうか。 ・あるいは音楽というもの自体を潰しにかかって来る。 ――それは音楽というものが私にとって非常に大切で、生きる為のエネルギーというか元気の素だからである。 ・つい最近、気になったのはさだまさしのアオハルとかいうアルバムの話。 ――彼にしてみれば、自分の青春でもあったあの時代の音楽が、最近まるで評価されないことに不満に覚えていたらしい。 ・謀略の一環としては、それも当然の帰結で、結果的にあのフォーク時代みたいなもの全体の評価が、 不当に低くなってるのは事実である。 ――それに反発する気分から、自分の青春時代に重要だった音楽を選び出して、 アオハルというアルバムを作ったらしいが……これも奴らの謀略の一つの帰結と見る事ができる。 ★外国めぐり ・当初は西めぐりの世界一周を目指していたが、飛行機嫌いの私は船旅を予定していた。 ――ところが、予防注射(世界には様々な伝染病があるので、その大半に対応する予防注射が不可欠だった)等の準備をする内、 どんどん時間が経ち、インドで暑いのは困ると思って結局、東めぐりになったのだった。 ――船も探したが、なかなか安いのはなくて結局、航空機を選んだが、その中で最も安いのが大韓航空機だったので、 まず韓国を一巡りして、そこからアメリカに飛ぶことにした。 ・反凶国家として知られた韓国でも、一通りやるべきことはやったのだが、 どうもここも駄目のような気配が強くそれで諦めた。 ――大韓航空機の旅は思っていたよりも快適で、座席が窓側だったので、上空では雲が階段状に並ぶのが見えた。 ――その様は、まるで『お菓子屋の店先の棚にケーキが並んでいる』かのようで、非常に印象的だったのを覚えている。 ・当初、ソウルからサンフランシスコに飛ぶ便を探したのだが、 結局、ソウルからロサンゼルスに飛ぶ便になり、途中ハワイを経由したが飛行場の外には出なかった。 ――ロサンゼルスに着くと飛行場から街まで歩こうと思って、ガソリンスタンドの店員に方向を聞いて歩きだしたが、 驚いたガソリンスタンドの店員に呼び止められ、そこにバス停があるからバスに乗って行くんだと言われた。 ――親切な人だったが、結局、成田空港から都心まで歩くみたいなものだったのかもしれない。 ・最初の宿は、UCLAというカリフォルニア大学のロサンゼルス分校だった。 ――ソウルの最終日に、ある店で餃子を注文した所、皿に大盛りだったのを、 もったいないと全て食べたのが裏目だったか、すっかり下痢体調になっていた。 ――それでロサンゼルスには約1週間いたのに、結局、外には全然出られなかった。 ・覚えているのは、大学のシャワーで、太い管からお湯が棒のように吹き出した。 ――アメリカ人はさすがに豪快だ、と思ったが……後で分かったところでは、 シャワーヘッドがよく盗まれるので、夏の間は外していたらしい。 ・その宿は二人部屋だったのだが、同室になった男に『私はなに人だと思うか』と聞かれた。 ――良く分からないまま、適当に『ドイツ人か』と答えると『自分はユダヤ人だ』と言われた。 ――この辺も後から考えると、謀略が関係していた可能性がある。 ★そこから、次はサンフランシスコを目指したが、事前に仕入れた情報から、簡単にヒッチハイクで行けると思っていた。 ――ところが、実際には全然簡単ではなくて、何時間待っても捕まらない。 ――後で知ったところでは、男女のペアとか、そういうのが一番警戒されず、楽に捕まえられるらしい。 ――一泊するコストもタダではない以上、何時間も待ってヒッチハイクするのは、かえって効率が悪いと気がついた。 ★そこで、結局ロサンゼルスからはamtrackとかいう電車で行ったが、 その時、郊外に広がる豪勢な邸宅群の前庭を通るような感じがしたのが印象的だった。 ――サンフランシスコは日本の標準からすれば実に美しい街で、特に歩いてめぐるには最適だったのも良かった。 ――フィッシャーマンズワーフ、ゴールデンゲートブリッジと色々回ったが、 金門橋を足で渡った先には、サウサリートとかいう瀟洒な別荘地みたいな所があった。 ・サンフランシスコからは、また少しヒッチハイクを試みたが、一回だけ成功した事があった。 ――ジャガーとかいう車に乗る若者で、砂漠の近くまでそれで入ったが、その後は、 グレイハウンドの一週間定額パスみたいな切符を買って、一目散に東を目指した。 ――結局、アメリカの旅は小文字のeを描くようにぐるっと回ったのだが、 ニューヨークの直前でふと気を変えて北に向かい、モントリオールを目指した。 ――敵の裏をかこうと考えたのと、フランス文化への憧れによるものだった。 ――途中、ナイアガラの滝に寄ると、思ったほど大きくなくて、ちょっとがっかりした。 ・モントリオールに着くとそこは、フランスの雰囲気がにおってきて、旅情満点だった。 ――フランス語ではモン・レアルと発音していた。 ――そこから更に東へ、ケベックを目指した。 ・自分のフランス語をそこで試したところ、全く通じなくてがっかりした。 ――例えばセントローレンス川を探して聞いた時は、リヴィエールと言ったので全く通じなかった。 ――後でわかったところでは、リヴィエールは小川のことで大河はフレーブというのだった。 ――フランスに渡ってから聞いたところでは、ケベックのフランス語は相当古くて、 訛りもきついので、通じなくても不思議はなかったらしい。 ・ケベックからは一路、西を目指してグレイハウンドの旅をしたが、 高速道路をぶっ飛ばす時は、他の車をどんどん追い越して行くのが爽快だった。 ――途中でカナディアンロッキーの町()に寄ったが、そこで食べたアップルパイがうまかった。 ――そして、西への旅は終着点のバンクーバーに到着したが、ヨーロッパ風の町並みが印象的だった。 ・ここから南に向かって、オレゴンを通過し、着いたのはソルトレイクシティだった。 ――ここは行きにも寄っていて2度目だと思うが、座り込みを始めた最初がその時だった。 ――持って行ったビラを、単に配るより、道端に座って抗議する方が良いと考えた。 ・その時、赤犬がたくさんが集まってきて、どんどんビラを持っていく。 ――それで考えたのは、ビラを一部10セントぐらいで売ることだった。 ――そうすれば、もしなくなってもまた作ることができると考えた。 ・ところが、西洋人の特徴として大変に小銭離れが良いようで、思った以上に小銭が集まった。 ――こうして次は南の方に向けてラスベガスを周った。 ――グランドキャニオンに寄ったのはその後だったかもしれない。 ・モントリオールはフランスの匂いがしたのに比べ、フェニックスはスペイン文化の濃厚に感じられる街だった。 ――特に面白かったのはサンアントニオの地下庭園だった。 ――川沿いが深く掘り込んだようになっていて、そこに店が並ぶ風景は、さながら恋人たちの庭という感じだった。 ――さらに、ジャズで有名なニューオリンズに泊まった。 ・フロリダに行くと老人の街だった。 ――そこから北に巡って、 ――韓国〜米国〜英国〜フランス〜スイス〜フランス〜イタリア〜フランス〜スペイン〜ポルトガル 〜スペイン〜モロッコ〜スペイン〜フランス〜ベルギー〜オランダ(ここで強制送還) ・イタリアでやった座り込みでは留置所に入れられて結局、国外追放になった。 ――このことは他でも書いたが、4日以内の国外退去ということでローマからナポリをまわり、 フィレンツェまで行ってそこから列車で退去した。 ・ポルトガルの座り込みではやはり留置所に入れられたが、そこで食った粥がうまかった。 ・フランスには何度も出入りして、併せて半年ぐらいた気がするが、座り込みも随分行った。 ――一度シャンゼリゼで座り込みをやった時には、5分もしないうちに警察がすっ飛んで来たのにはびっくりした。 ・ガスや薬物の使用は相変わらず続いていた感じがして私は、   自分の尿を取って瓶に詰め、セーヌ川に投げ込むようなことをした。 ――いざという時に証拠にしようと思ったのだが、多分十本以上投げ込んだ気がするので探せば出てくるはずである。 ――但し、既に時間が経ち過ぎたので薬品類が出てくる可能性は少ないかもしれない。 ★★★これは、たまたま手元にあった英語ビラの写真 ――外国に出る前には、一応英語のビラを用意したが、薬物の影響もあってとても満足できる内容ではなかった。 ――しかし、途中のロンドンで、そのコピーを作って何とかしのいだ。 ・その後、暫くマルセイユに落ち着いた時に、改めて仏語のビラをつくった。 ――その後、それを英訳したり、より長文の英語ビラに直したりしたが、これはその短文の英訳ビラである。 http://www2.tba.t-com.ne.jp/a-z/omake/img2/bill-english2.gif ――『This is the horror o brainwashing!!』という題名にしたのだが、 その後、ホラー映画ブームが起こったことを覚えている人もいるだろう。 ――私の立場では、これまたアリババ法の一種に分類される手口である。 ★オランダではいくつか街を巡ったが、最後のハーグという町がひどかった。 ――国際裁判所で有名な街でもあって、ひとつのポイントと思ってまた座り込みをやったのだが、   警察に捕まり留置所ようなところに押し込められ、そこでまたひどい薬物があったらしい。 ――何やら石の壁に頭をぶつけたくなるような衝動に駆られ、これはやばいと思った私は、 その後は出された食事の内コーヒーは便器に捨て、パン類だけを寝る前に食べてすぐ寝てしまうようにした。 ――すでにヨーロッパ旅行にも少し飽きてきていた私は、奴らが差し出した帰国同意書のようなものに、 サインさせられたかもしれない……法律のことはよく知らないが、体の良い強制送還だった。 ――帰りの便は一番高い航空便に乗せられた感じで、残した金を全て使われてしまった。 ★これは後から知ったのだが、私が西欧各地を回って抗議活動をした後、 その波紋を消すかのように回っていたのが、例のYMOというバンドだった。 ★帰国して、実家〜山谷の日雇い生活〜飯田橋の三和運送に就職してトラック運転手になる。 ――2tトラックで都内を巡ったが、主に印刷物が多かった。 ――無論、全ては嫌がらせ付き。 ――湾岸高速などはジェットコースターのようで結構気分が良かった。 ★世田谷の松原で下宿生活に入ると、後は資金をためて選挙に立候補するのが主目標となったが、 赤犬工作で全国区は廃止され、地方区の供託金も200万円に吊り上げられた。 ――ここで注意すべきなのは供託金の話を探ると「自民党が共産党を妨害するためにやった」ように書いてあること。 ・実際それまでの選挙では供託金がほぼタダだったので、共産党は全ての選挙区に候補者を立てていたのが、   こうした吊り上げによって難しくなったのは事実である。 ――つまり、通常の感覚では「共産党を叩くために供託金を吊り上げた」という話はよくできた話である。 ・しかし、現実に私が言っていることが事実となれば、共産党はその存在自体が崩壊するという話であり、   候補者を減らすことで党勢が傾くなどというレベルの話ではないという点に注目すべきである。 ・ユダヤ主義とその下僕の赤犬が嘘の天才である、ということの、これはほんの一例である。 ――この場合、嘘はそれだけではない。多分それを言いだした自民党議員というのが、   また赤犬だった可能性があって……嘘は何重にも入り組んでいるのだ。 ・その結果、1983年の立候補予定がパアになった。 ――つまり、100万円で何とか立候補する予定でいたのがパアになり、さらに3年アルバイトを続けざるを得なかった。 ――それで多少資金の余裕が残ったのは、まあ不幸中の幸いかもしれない。 ――その後、カツカツの貧乏乞食生活を続ける上で役に立った。 ★その間、松原時代にもう一つやったのは、渋谷ハチ公前での街頭演説だった。 ――せいぜい月に一度位だったが、これまた反応はなし。 ――この時『今後は赤犬支配の暗黒時代になるだろう』という予想を何度も繰り返したが…… それを打ち消すかのように始まったのが、例のバブル景気だった。 ★1986年の参議院選挙で東京選挙区から立候補したが、成果なく実家に戻る。 ★これは選挙の時に作ったビラだが、遥かに緊迫感がある上、活字なので読みやすいのも利点。 http://www2.tba.t-com.ne.jp/a-z/omake/img2/bill-senkyo1.jpg http://www2.tba.t-com.ne.jp/a-z/omake/img2/bill-senkyo2.jpg ――今思い出したが、この頃はようやくワープロが普及し始めて、誰でも活字みたいな文章を作れるようになったのだった。 ――トラック運転手をやっていた頃、少し金がたまったので新宿のヨドバシカメラに行き、10万円もする富士通OASYSを買い、 信号待ちや渋滞の間に運指訓練をして、親指シフトをマスターしたのを覚えている。 ★この選挙ビラで注目すべきなのは、まだユダヤ支配に触れていないこと。 ――『共産主義とそれを裏で操る悪魔』と書いたが、当時もうユダヤ支配に疑問は持っていなかった。 ――世界中を巡って、どこもかしこも同じ状況と分かってみると『世界中が共産主義で洗脳されているのに、 どうして世界全体が共産化しないのか』という大きな疑問の答えは、それしかないように思われた。 ・ただ、選挙で直接言及するのにはまだ、ためらいがあったというか、 それをはっきり書く決断がつかなかったので、悪魔という表現に止めたと思う。 ――というのも、まだアウシュビッツの記憶が生々しい頃でもあり、 ユダヤという名前を出すだけで、逆に引かれてしまうのでないか、と恐れた。 ――無論、聞かれれば答える覚悟はあったが……何しろ反応ゼロという不可解な状況がずっと続いていた。 ★★★他方、選挙では当然、政見放送というものがあって、NHKでは直前に薄化粧みたいなこともさせられた記憶がある。 ――一種のドーランみたいなものを顔に塗って、血色を良くしたり、TV映りを良くしたりするらしい。 ――本当なら、全国区の政見放送で日本全国に訴えかけるつもりでいたのが、凶罠でつぶされた分けね。 ――その時のビデオが、普通ならNHKのアーカイブか何かに残されているはずとは思うが……この赤犬支配の世の中では確信は持てない。 ★その後は実家に戻って、共産主義の根底を崩すための研究へ。 ――その帰結が英文サイト『Why is this world unhappy?』 http://www2.tba.t-com.ne.jp/a-z/english/index.htm ★また、幸せとは何かの探究へ。 ――その帰結が和文サイト『悟るとはどういうことか』 http://www2.tba.t-com.ne.jp/a-z/ ・この頃の研究では、特に二つのデータに注目した。 ――ヒトラーの『我が闘争』と、キリスト教の『聖書』である。 ★先ずヒトラーの『我が闘争』 ――『何かユダヤ謀略を倒すためのヒントがないか』と目を皿のようにして読んだが、結果的には皆無だった。 ――結局は、ユダヤ支配に利用されただけの愚か者とすれば、不思議ではないのか…… ――そのことが、今回この自分史を書くひとつの動機となった。 ――ただいくつか印象に残ったことはある。 ・一つは日本の大艦巨砲主義を褒めていることで、それは結局、日本を間違った道に誘い込んだ。 ――つまり、空母の時代に戦艦大和や武蔵といった無用の長物に大量の資源を投入する馬鹿げた事をやった。 ・もう一つはユダヤ支配の原則として『日本を洗脳せずに世界支配は完成できない』と書いていること。 ――この点は、 二つの大戦を『ユダヤ主義の画策』と考える私の発想につながったかもしれない。 ・後は、ユダヤ支配の新聞をユダヤ新聞と呼んでいる点が、簡潔で便利な表現なので利用している位か。 ★聖書に関しては、昔の中世の停滞がカトリック支配によるものであると気づいた結果、 キリスト信仰が、ユダヤ支配の為に用意された枠組みのように思えたからである。 ――例えば、キリスト教が性的なタブーの源であること(具体的には、アダムとイブの話)。 ――その点が性的な罠による洗脳手口(日本では革マルが担当)との関係で注目された。 cf. キリスト教は性的タブーの上に作られている点が、 仏教が生死のタブーの上に作られている点との本質的違いと思われる。 ――仏教の邪淫戒はブッダによるというより、その後に付加された可能性がある。 ★父に次いで母も亡くなり、少し遺産が入ったので、1998年にPCを買った。 ★その使い方を習熟し、2000年にネットに接続すると、自分のサイトを立ち上げると共に、 2chで消費税廃止の議論をしたが、反応は叩き屋ばかり。 ――直後の2001年には、例の同時多発テロが起こった分けだが、 これも、ユダヤ支配に伴う工作だったことは疑いないと思われる。 ★ネットもほぼ赤犬支配と分かったので、後は2013年にツイッタ投稿を開始し、 国内外への情報発信を開始して今に至る。 ★★★結局、今の世の中は見えない奴隷制と呼ぶのがふさわしい★★★ ――ユダヤ主義が世界を牛耳っており、政治家の大半が赤犬である。 ――例えば、米国の大統領はニクソンを最後に全て赤犬となった。 ――国内ではユダヤ主義の下部組織として、日本共産党と革マルが二分支配している。 ――政治家や芸能人は半分が日共系、半分が革マル系と見て良い。 ★ここで顔写真集★ ――残りの人間で危険と見なされた者は、その時点で洗脳される。 ――あとのどうでもよい人々(支配者にとって、危険性のない者)だけが適当に泳がされている。 ★★★一つの重要なポイントは、これだけ色々言われているのに、 日本共産党が何一つ反論せず(できず)に何十年も無視を決め込んでいること。 ――それは無論『反論しても全く勝ち目がない』ことを奴らが理解しているからである。 ★★★似たようなことで言うと、米国に『サイモン・ウィーゼンタール・センター』とか言うのがあって、 一時は日本でも『マルコポーロ事件』などで名を馳せたことがあるが、 最近はこれまた全く音無しの構えで、黙り込んでいること。 ――私が英語で発信を始めてから、少しはデータが浸透し始めたのか、 これまた下手に騒げは、まずいことになると分かっているからだろう。 サイモン・ウィーゼンタール・センター https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%82%BC%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★